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【指定】新琴似屯田兵中隊本部【有形文化財】②

新琴似屯田兵中隊本部を見学しています。
初期は「週番所」と呼ばれ、軍の役所と兵村の村役場のような場所だったらしい。兵士だけでなく、家族や商人も出入りしていたんだそうですよ。
それにしてもこの建物、どの部屋の窓面積も大きいし、部屋と部屋を隔てる引き戸もガラス戸です。明るくて開放感がありますが、二重窓じゃないし冬は……。

展示室の金庫を開けて、中身が錆びた木ネジと雑紙だったガッカリ感を引きずりながら、次は中隊長室を見に行きます。
中隊長室とか一番wktk

新琴似屯田兵中隊本部 中隊長室何畳くらいですかね。結構広い。机も隊長のやつを再現してあるそうです。
この机で隊長が仕事してたんですね。開墾や農業の事業計画を立てたり、軍事政策について思案たり?
あと定期的に兵村を見回って開墾の進捗状況をチェックしたりとか、早朝の始業前の朝礼でお話をしなきゃならなかったりと、忙しかったらしいです。おまけにここは僻地だし周りは原生林……仕事しかできねぇ。

29年くらい続いた屯田兵制度のなかで、歴代中隊長は功績をあげて街の発展の基礎に貢献したようです。二代目と五代目のヒゲのボリュームがすごかった。

続きは↓をクリック
 



とりあえず中隊長の席に着いてみる。
新琴似屯田兵中隊本部 中隊長室 ふむ………。
なんかそれっぽい台詞を言ってみたかったけど思いつかず。丸メガネにチョビ髭の軍人が地図を見ながら戦略を説明してるところとか、日本の戦争映画でありそうなシーンのモノマネとかしたかったけど誰も見てないので諦めました。
正面の部屋は下士官集会室です。

中隊長室には制服が展示してありました。
屯田兵の少尉以上が礼式で着用した大礼服。
ここ新琴似は第三中隊の中隊長は大尉が着任していたそうです。琴似の第一、山鼻の第二中隊は違ったんでしょうか。
屯田兵大礼服どうしても反射して写しにくい!ガラスに写ってる人影はきっと屯田兵の霊か、でなければどこぞの腐女子でしょう。
屯田兵大礼服(少尉以上用お、横からだと写る。
胴の赤いラインがシュッとしているので、体系の良い人が着たら映えるかも?
袖の変な模様は、階級によってラインの本数が増えるんだった気がする。
大礼服 ボタン大礼服 帽子
光って見ずらいけどボタンは桜があしらわれています。こうゆう軍関係の物に桜が使われるようになったのはいつからなんでしょうね。
飾り羽の付いた帽子の天辺には大きく☆が描かれています。ただの☆ではなく五芒星なのは、まさか陰陽五行論由来……では全然なさそうですね。帽子の額部分のマークは旭日章。

中隊長室の向かい、下士官集会室。ここは中隊本部とその周辺のジオラマがありました。そうゆうの好き。
新琴似屯田兵中隊本部 下士官集会室
新琴似屯田兵村こうゆう服だったんですね。
開拓民の模範でなければならなかったそうです。てゆうか馬の人がラッパ吹いてて周りがボーっと聴いてるように見える。
新琴似屯田兵村奥の建物が、この中隊本部。右の林は現在は新琴似神社の林です。
新琴似屯田兵村中隊本部前。
朝の作業開始前に、ここに集合して朝礼のようなものがあったそうです。兵村は広く、家が遠い人は早朝から大変だったでしょう。冬とか道が一晩で大雪に埋まった朝とか、どうやって時間までに辿り着いたんでしょう。根性?
だいたいこんな感じの日課だったらしい。
  夏(4月~9月) 冬(10月~3月)
起 床 4時 5時
就 業 6時 7時
食 事 12時 12時
就 業 13時 13時
引 揚 18時 17時
早起きっすね。ちなみに私は四時半起きです(`・ω・́)キリッ
村に起床ラッパが響くと、兵の家族もラッパで一緒に起床したそうですよ。
食事は麦飯か、粟、ひえ、そばなどの穀類が主食、あとは人参・ゴボウや大根、フキ、ワラビの煮つけや漬物、味噌汁などを食していたらしい。川で釣った魚はご馳走だったそうです。
……これに酒を加えると私の食生活ですね。年寄かよ。

この兵村では米が足りなくて、備蓄米を巡って発砲事件が……という騒動も起こったとか。

新琴似屯田兵村兵屋と畑。自給自足です。
この兵屋に家族で入居。開墾・軍事訓練の他に、早く家の畑で自分達が食べる分を作れるようにならないと大変だったとか。樹齢百年超の大木の伐採や巨大な岩石を撤去するところから始まったので、とにかく頑張って食糧支給が終わる入植三年目までに畑にしないといけなかったようです。
地域によるけど農地に全く向かないような土地では、かなり悲惨な生活を強いられた家庭も多く、逃走者や精神に異常をきたす者が出たことも。
しかし色んな農作物を北海道で試し、後の農業に貢献があったともどこかで読んだ。

この兵村では、最初に原生林四千坪の土地を入植してきた屯田兵に与え兵屋を立てて、まずはその土地を開墾しなければならなかったそうです。
最初は周りは広大な森で、その中に家屋が点在しているわけだから、帰り道に家の場所が解らなくなって迷ってるうちに暗くなって焦る、ということもあったようです。そしてヒグマやエゾシカなど獣が……
しかもここの人たちは九州から来た人だから、冬の気候はかなり堪えたんじゃないでしょうか。家はあの明らかに寒い小屋だし。

このジオラマのところに、初代中隊長の訓示が紹介されていました。
初代中隊長は、三沢大尉
「三沢」ときて「大尉」って……








三沢一尉!?(^q^)







って思ったけどもちろん別の人です。

そして、これが郷土本に記載されているらしい入植者たちへの訓示。

三沢中隊長「おまえたちの故郷である南国の気候・風土は十分に承知している。それに反して昨日、お前たちが入植したこの未開地は北国の一大湿地帯である。さぞかし驚いているだろう。だが、これからのお前たちの一鍬、一鍬によってこの大地は第二の故郷の礎となるのだ。困苦欠乏に耐えて団結し開拓せよ」

い、いろいろ厳しい……

私もそろそろ先人に頭が上がらなくなってくる頃です。

この三沢大尉は泥炭質の広大な湿地帯を農地にするにあたって、まず巨大な排水溝を作るという計画を立て、それが成功して土壌が改良され農業の発展につながったそうです。なんか大根が名物になったらしいですよ。
そういえば前回の記事で大根満載の馬車の写真を乗せましたね。

そして、昭和11年に建立された開村50年記念碑ですが、
開村50年記念碑
↓現在の碑 中隊本部のそばにあります。
開村50年記念碑
緑が増えたくらいのことしか解らないですね。

このジオラマでいうと、画像左端の森のあたりにこの碑があります。
てゆうか門のあたりで走ってる兵隊の慌ててる感じが面白いですね。みんな本部前に整列してるから遅刻ぎりぎりでしょうか。
新琴似屯田兵中隊本部
そして画像中央を横切る道路が、多分現在の樽川通でしょう。
↓現在の樽川通、右の林が中隊本部の敷地で、写ってないけど開村50年記念碑も付近にあります。
樽川通
樽川通 東方向東方向。
左は新琴似神社。
このあたり、大戦中は飛行機の滑走路として使うために拡張されたらしいです。住民は疎開で不在だったらしいですが、民家や神社の森林に飛行機を隠したんだとか。

長くなりましたが屯田兵中隊本部の見学はこれで終了。
ローカルすぎてわからない内容ですが、ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。
この後は、浄水場見学と旧軍隠匿壕を探し歩いた話……


永井君の誕生日も近いですね。
うーん。どうしよう。

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