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軍事と自然散策と女性向け表現有り
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相馬神社・北部軍司令部周辺(平和公園)

戦跡めぐりの散歩。
先日、浄水場を見学してから山の麓の隠匿壕を探した後の道のりです。

炎天下を頑張って歩いて、辿り着いた天神山緑地。山というより、街中の住宅街にある丘のような場所で、林や散歩道があります。緑地保全地区で、上ると見晴らしが良いです。
一応「山」扱いらしく、標高は84mくらい。

山に相馬神社という神社があります。
軍関係の施設ではありませんが、当時の時代の名残を感じさせる物が残っていると聞いて訪ねました。
相馬神社全体像を撮ってくるのを忘れましたw
(-人-)

記事の続きは↓をクリック

相馬神社相馬神社
ここの神社は梁の彫刻が立派です。ギョロ目のドラゴンがこっちを……
ここは明治4年、仙台からの入植者によってこの場所で祭事を行ったのが始まりだとか。明治4年というと屯田兵がくる5年くらい前っすね。ずっと昔ですね。140年位前? 北海道の神社ってだいたいは入植・開拓が始まった百数十年前くらいのが一番古いと思いますが、内地はそれこそ千年級の神社があるんですよね……スゲェ。

相馬神社狛犬相馬神社 狛犬
狛犬。なんか顔が怖いぞ。デザインとか全体的に怖い迫力があるぞ。個人的には靖国の三角形マッチョ狛犬より迫力を感じました。大きな耳のような鬣といい顔といい。
胸の模様が超レトロですね。よく解らないけど古代級にレトロ。

相馬神社 鳥居なんとなく横長な印象の鳥居。
鳥居の向こうが神木で、背後が狛犬と拝殿です。

この鳥居が目的です。

鳥居、画像向かって左の柱。
相馬神社 鳥居何か文字が掘られている。
奉納 大東亜聖戦完遂祈願記念 と読めるっぽい。ここには何度か来ましたが全く気が付かなかった。汚れてるのはイタズラで塗りつぶされたのを落としたか、それとも単に色文字が滲んだのか。戦後に進駐軍に塗りつぶされたのかも? わからん。
開拓者達が築いたこの神社も、戦時は人々と共に軍事色に染まっていたということでしょう。そう思うと、この鳥居を見て軍事と平和や現実問題、歴史の変遷について考えさせられます。
まぁオタクなんで軍事については毎日考えてますがね。

相馬神社 鳥居昭和17年。
平岸村の氏子一同から奉納されたもののようです。平岸村って結構広かったらしいですが、村からも大勢の人が戦場に送られ命を落としたことと思います。この鳥居の文字は戦時の風潮を知る手がかりとして、後世に遺していきたいものの一つです。
鳥居は木漏れ日の中でひっそり佇んでいました。

平岸村、やせた土地に頑張ってリンゴを植えたりしてたそうです。
この場所が豊平町から札幌市の豊平区へ変わっても、平岸という地名は現在もしっかり残っています。
昔は畑ばっかりだった村も今は都心に近く、地下鉄が通って賑やかです。このあたりは地下鉄が地上に出ているんですが、雪よけの為にフードが付いて、地上のトンネルのようになっています。珍しいらしいです。

相馬神社 神木これ、ご神木なんですが、枝振りがすげえ。イチョウだっけか。何だっけ。
樹齢300年を超えているらしい保存木です。
300年のうち半分を原生林で静かに生きて、もう半分は汗水垂らす開拓者達や痩せた土地と戦う村人、そして戦争に沸く人々や家族の帰りを待つ人々、そして戦場に赴く前に立ち寄った兵士も見送ったことでしょう。それから敗戦の時も見て、戦争から立ち直っていく人々をじっと見守ったんでしょうか。多分、時たま子供によじ登られたり蹴りをくらったりしつつ。
そして今日は私がふらりと訪れて、手水舎の水が鉄臭い等と文句を垂れてたわけですね。少なくとも私の脳内は平和ですね。
ちなみに、さっき↑で平和について考えたとかもっともらしいこと言ってましたが、本当は参拝中は何よりもまず「どうかこの私めに宝くじをぉぉぉぉ」とか本気で念じてました。
でもきっと300年も生きてたら樹木としても悟りが開けてると思うので、私にバチが当たったりはしない予定。同時に宝くじもきっと当たらない予定……

相馬神社は地下鉄南北線澄川駅から徒歩で10分かからないくらい? 天神山緑地内にあります。表参道の急な坂道は、冬場は凄く滑ります。裏道は雪にハマりますが。

神社を見た後は、頑張って歩いて平和公園を目指しました。
このとき既にかなり歩いていましたが、頑張って歩きました。
先日、月寒25連隊と月寒アンパンがどうのと説明しましたが、そのアンパン道路の近くです。
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■北部軍司令部と平和公園■

北部軍司令部。
東北、北海道、千島、樺太にいた師団を統括する司令部で、この月寒という場所に基地がありました。月寒25連隊もここにいました。
現在の月寒は、司令部や基地の建物、基地付近にあった訓練場などは殆ど残っておらず、住宅が乱立したごく普通の市街地です。将兵の墓地と演習場は、それぞれ公園になっています。
司令部の隣にあった司令官官邸は今も保存されていて、郷土史料館として公開されています。史料館は鼻血出すくらい興奮しながら見てきたので後日紹介します。

かつてあったその基地には通信施設があり、色々な情報が集められていたみたい。札幌の空襲警報もここから出していたそうで、戦後は自衛隊駐屯地の飛び地として送信所になり、最近まで通信関係の教育施設だったそうです。
その後は通信機能は市内の真駒内駐屯地に移り、解体が決まりました。戦争遺跡として保存するべきだという声もあったそうですが、一般公開されたのちに解体されています。

この司令官官邸と司令部、そして通信施設は、なんと秘密の地下通路で結ばれていたらしい。
通路があったというのは確かなようですが、それ以上のことは謎。情報元が信頼に値しないため、ガセかもしれないけど、その通路は基地の外へ一キロちょっと延び、当時駅があったらしい場所まで続いていたとか。
ひょっとしたら史料館の下の通路とかまだ残ってたりしないかな……見てえええええ!

もしや保全運動の甲斐も無く公開してから解体されたのも、なんかすごい機密があったからじゃ!? って、壮大な妄想を脳内で繰り広げましたが、解体自体は単に土地の再開発を優先した結果でしょう。施設自体は売りに出されてたようですが、買い手がつかなかったようです。
個人的に欲しかった(・q・)

あと近くに陸軍病院もあったのですが、こちらは現在私立高校。結構良い高校みたいですよ。
勿論、幽霊の噂があります。
でも私の友人が通ってたので学際に行ったことがありますが、傷痍軍人の霊とかは見当たらず。もっとも当時は陸軍病院のことなんて知りませんでしたが。

というわけで現在は司令官官邸と、基地の前の並木くらいしか残っていませんが、司令部の敷地の一部が平和公園になっています。
もともと陸軍の戦没・病没者の墓地だったそうで忠魂碑や忠魂納骨塔、軍馬忠魂碑が立てられていましたが、戦後は進駐軍の基地になり、その後に平和公園として開園。
その時に、公園正門に北軍司令部の正門門柱が移転され、現在も見ることができます。

で、まずはその平和公園を見てきました。
平和公園これがその門柱。
手前の白いのじゃなくて奥のレンガ色の方ですよ。
レンガの風合いが綺麗でしたが、なんか写真が超適当。
平和公園 門柱門柱の上部が家みたいになってる。
160㎝の私が見上げるとこんな感じで、結構大きかったです。これが、北部軍司令部の正面の門だったんですね。横に三八式歩兵銃を携えた歩哨が立っていたのでしょうか。
銃剣のついた三八式を携えた兵隊の白黒写真を見たことがありますが、妙に長かったです。

平和公園公園内へ。
もう基地や墓地だったころの面影は無し。
実はこの時、炎天下を延々歩いて暑さにやられていました。それでじっくり見てこなかった。
たしかこの先のグラウンドを抜けたところに、忠魂納骨塔がありました。
忠魂納骨塔忠魂納骨塔
(-人-)
納骨塔ってことは、ここに納骨されているのでしょうか。月寒25連隊の戦没・病没した将兵が奉られています。
塔の後ろには桜の木が植えてあるそうです。花が咲いてないから解りにくいけど、兵士たちが持ち帰った満州桜と千島桜なんだそうですよ。どんな思いで持ち帰ったんでしょうか。
忠魂納骨塔天辺に☆マーク。
塔の裏手に回ってみる。こういった塔や碑の裏に回るのって、なんか土器土器しません? ちょっと怖いけど気になる、みたいな。
しかし回ってみたところで、せいぜい何か文字が書いてあるくらいだったり。
忠魂納骨塔と思ったら扉があった。
中は納骨堂のようになっているのでしょうか? でも戦没者の数を想像すると……どうなってるのか。見てぇ。
忠魂納骨塔上部にちいさな穴が。
あの穴からは入るのも覗くのも流石に無理です。

この日陰でしばらく涼んでいきました。

この後は、平和公園の近くにある演習場跡・月寒公園で軍が山の斜面に掘った豪を探しましたが、その紹介は後に回して、司令官官邸(史料館)について先に書きます。つづく。

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