×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
軍事と自然散策と女性向け表現有り
| |
戦跡めぐりの散歩シリーズ。 前回http://olivedrab.kakuren-bo.com/Entry/254/#moreの続きです。 あっちへふらふら、こっちへふらふらしながら月寒の歩兵25連隊由来の戦争遺跡を中心に見て歩いています。 今回は資料館見学。志村のおっさんの銃もあるよ! まず、「つきさっぷ資料館」がある月寒(つきさむ)について。 月寒とは札幌市内の地名ですが、昔はツキサップ村と呼ばれていたのだそう。 北海道の街や川・山などの名前はアイヌ語が由来の地名に無理やり漢字を当てたものが多いですが、ツキサップはアイヌ語のチキサプ(火を起こす道具のこと)からきているらしいです。チキサプの原料になる木が生えていたから、という説。 かつては月寒でツキサップと読んでいたようですが、当て字すぎて無理がありますね。それで陸軍の要請で漢字そのままに「つきさむ」と読むように変更されたそうです。多分、地図とかに「月寒」って書いてあっても余所の土地から来た人は絶対に「ツキサップ」とは読めないはずなので、軍の仕事的に不便極まりなかったんだと思います。 そんな月寒村にはリンゴ畑と、あと軍の施設が色々あったそうな。 かつて、北部軍司令部と司令官官邸のほか、25連隊の兵営や幹部の官舎、防空指揮所、練兵場や演習場、陸軍病院や陸軍墓地など、軍関係の施設が多くあった所だったと私も最近知りました。要所ですね。 軍の施設以外は村と畑だった月寒ですが、今はごく普通の市街地です。地下鉄も通っていて、結構栄えています。司令部や兵営の敷地だった所には学校や住宅・マンションなどが建っています。前回に紹介した忠魂納骨堂や司令部の門柱などは残されていますが、それ以外は特に旧軍基地の面影はありません。 25連隊、北部軍司令部のすぐそばにあった司令官官邸が、現在はつきさっぷ郷土資料館として無料開放されています。郷土本なんかで戦跡について調べたりしていますが、この資料館は別件(秘密の地下通路の件)で地図を眺めてる時にたまたま発見して存在を知りました。 ここでは主に月寒開拓に関する資料、月寒25連隊や北部軍司令部に関する資料や文書などが展示されていて、レトロな雑貨や軍モノが充実しています。開拓時代の生活用品なども多く、骨董なんかに興味がある人が見ても面白いんじゃないでしょうか。 つきさっぷ郷土資料館。入場無料。 もちろん突入しました。 以下、与太話を交えつつ紹介していきます。というかほとんどが与太話です。 続きは↓をクリック そうそう、資料館の並びにはポプラの木が並んでいますが、これは司令部があった時に植えられた木なんだそうですよ。今でも駐屯地も周りなんかにはよくポプラが植えられてますね。
何年前だろ、かつてこの並木の向こうが司令部の敷地だったんです(現在は公立学校)。官邸と並んで通りに面しているので、このあたりが正門だったのでしょう。 この並木を見て、周囲の街並みと区画を見回して、まだこの道路が未舗装で道の向こうが基地だった頃の風景を想像しようとしました。 しかし、ちょうどこの木の向かいあたりに以前に紹介した月寒あんぱんの店を発見しまして、資料館そっちのけで思わず食い物に飛びつきました。月寒あんぱんとは、むかし道路作ってくれた兵隊さんたちにお礼にあげてたアンパンの復刻版、のようなものです。 あんぱん5個入りで500円。500円で1ポイントのポイントカードが嬉しい。 お土産のあんぱんを買ってから資料館に突入。 司令官官邸・現つきさっぷ資料館。 レンガ造りの建物。レトロです。なんかいかにも「官邸」っぽいですね。 1941年(昭和16年)に建てられたもの。築70年か……
正面玄関から。
こんにちは、ハスハスしにきましたー!ガラッ|≡^O^) 靴を脱いでスリッパに履き替えます。それからテーブルに置いてあるノートに氏名を記入。 かつては司令官がこの玄関を出入りしてたのか……仕事の都合とはいえ、職場(司令部)の隣が自宅っても味気ないかも。ほぼ職場に寝泊まりするようなものですね。 司令官は中将だったようです。家族と住んでたんでしょうか。あと使用人と当番兵? この玄関の右手は事務室があって、ボランティアの運営部員がいましたが、昔はそこに兵隊が詰めてたのかなぁ……。だとしたら階級が低い兵隊の仕事だと思うけどここに出入りするのは司令官とその同僚や客人なわけで……とか想像してみる。一藤さんが更に偉い人を連れて来て緊張する永井君をイメージしとけば良いでしょうか。 左側にちらっと写ってますが、月寒の年表とか資料館のパンフがあったでのでもらっとく。 季刊のおたよりもあって、地元の歴史に関する内容がわりと楽しい。 ところで私、どうやら脳だけが異界に飛ばされているらしく、何かを見つけたり貰ったりするとすぐ
【季刊 つきさっぷ資料館だより】が
アーカイブに追加された。 とか脳内で字幕が出ます。ゲーム脳ですかね? もう主人公気分が味わえますが、主人公補正が一切ないので詰むどころか死にそうです。 ホールには階段が。内装は整えたようですが、階段がまた古い感じです。古いけどちょっと高級な感じが◎ この官邸、戦後は北海道大学の学生寮としても使われていたそうです。 いいなぁ寮が官邸とか。そもそも学校の寮のような、同じことを勉強してる人同士での集団生活にあこがれる寂しんぼな庚さんなので、二重に羨ましい。寮生活を経験した女友達はみんな「人間関係が(ry」とか言いますが、そういえば私は何故か巷でよく耳にする馬鹿女特有の人間関係トラブルに巻き込まれたことが無いです。馬鹿だけど。 とりあえず、このホール左手にある部屋に入ってみました。 農民がいる…… どうやらここは開拓民たちが使っていた農具を中心に展示してある様子。ということは明治頃のものでしょうか。 脱穀機や秤、鍬やカマ、謎の機械、蓑に笠、ザルや籠などなど。屯田兵屋でも似たような農具は見ましたが、月寒にいた開拓民たちは屯田兵ではなく民間人だったようです。 ん? これは…… ちょ、これ手枷と足枷!?Σ( ゚Д゚) でも上のは穴が一個多いし……い、一体どんなエロい拷問具なんだ!? と思ったけど、単なる農具でした。 どうやらリンゴに関係した道具のようです。収穫したリンゴの玉の大きさを測る……とか? この月寒だけでなく、豊平区ではリンゴの栽培が盛んだったのです。今はリンゴ畑は無くなりましたが、当時を偲んでか交通量の多い道路沿いには排ガスまみれのリンゴの木が植えられていたりします。あとレンガ造りのリンゴ倉庫が街角にあったりします。 これは前掛けらしい。海産乾物問屋って書いてありますね。すごくレトロでかっこいいです。ホスィ( ゚Д゚) ポケットに入ってる新聞の切れ端がまた古かったです。 屯田兵屋でも見かけたでかいノコ。 これは、ともえちゃんが持ってたやつに似てますね。大木をバラすのに使ったのでしょう。 おおこれは! 志村のおっさんの銃! 村田銃ですね。猟銃です。 今は車がびゅんびゅん走る市街地ですが、開拓時代はこの月寒もエゾシカやヒグマも多かったのでしょうか。サバイバルな開拓団の暮らしに興味が湧いてきます。 なんでも、畑をシカやヒグマに荒されたためアイヌにヒグマの駆除を頼んだこともあったのだとか。暴れ馬を農作業に使えるよう調教してもらったという話も聞きましたし、開拓民はアイヌには色々お世話になっていたようです。 また、産業のひとつとしてエゾシカを狩り、その毛皮や肉・角は中国やフランスにも出荷されていたのだそうです。肉も美味いし角も立派ですからね。品質が良かったんじゃないかと勝手に思ってます。 その後、とにかく沢山いたエゾシカは狩られまくって激減したため保護政策が取られ、頭数が増えたのに保護政策を放置していたため増えすぎて心底困ってます。身勝手かもしれないけどまた頑張って狩って食うしかない←いまここ 銃と一緒に弾丸も。 よく残してくれた。 銃だけじゃなく、この資料館に展示品を寄贈した人に頭を下げたいです。 見にくいですが、弾丸を作る道具! なんかこれ爺さんが持ってたような……。 火薬を計って薬莢に詰めるということくらいしか解らん。 これが鉛? これを弾頭か散弾にしたんでしょうか。 さて、部屋を出てホールに戻り、とりあえず階段の上は後回しにして、廊下の奥へと進んでみます。 立派な柱時計がある。今時、こんなでかい時計が置いてある家は少なそうです。 柱時計の向かいには交換台? 電話の取次ぎなどをするのに使っていたということくらいしか解らないです。もともとこの官邸にあったものなのか、隣の基地から持ってきたのか、別の場所から来たのかは解りませんが、なかなか見られるもんじゃないですよね。通信兵か民間人か解りませんが、交換手がここに座ってテキパキ仕事してたんでしょうか。 交換台の上には昔の公衆電話も置いてありますが、右のピンクのは私が幼少のころに見たような気がしなくもない。 下に置いてあるのは昔懐かしいダイヤル式の電話。今の子供はダイアル式黒電話の使い方なんて解らないんじゃ……と、SIRENの多門さん屍人ノ巣ステージで松川屋に電話するたびに思います。 そしてこれらの電話機は私でも使い方が解らない。トトロに出てきましたよね、こんなの。いかにも交換手が取り次いでくれる電話、という感じです。 兵隊さんや和服姿の開拓民がこれを使っているのを想像してみたり。 つーか、右上と左下の電話が顔に見えません? アホ面に見えますよね?(笑) これ絶対当時の子供も同じこと考えてたと思います。そんで絶対顔真似とかして笑ってたと思う。 (●.●) ( ・ っ・) そのまま廊下を進むとまた階段が。 どうやらこの建物は二階が二つあり、互いに独立しているようです。二階同士が繋がってない。 踊り場にはオルガンが。 椅子の上に置いてあるのは私が買ったあんぱんとかです。オルガンが妙に小さかったため、大きさの比較用に置いたんですが、あまり意味がないですね。 踊り場の窓からは芝生の庭が見えました。 さぁ、二階にも一部屋あります。奥まってるし、ここは寝室とかプライベート空間だったのかな? 現在は古い民具が展示されています。こちらは農具類ではなく、開拓時代から戦時くらいまでの生活用品といった様子です。 誰もいない部屋に、国会中継のラジオ音声が流れていました。 実はここに訪れたのがひと月以上前、七月上旬のことですが、ラジオでは経済対策や震災・原発・不正その他諸々の件で総理が槍玉に上がっていました。今と何ら変わらないですね。 なんとなく聞き耳を立てつつ室内を見て回ります。 火鉢や茶釜のような物、レトな箪笥や物入れのような生活雑貨が沢山。 制服も発見。 消防団員と書いてありました。昔の消防署員の制服のようです。 帽子がヘルメットみたいだし現場用作業着のようですが、今のとはかなり違いますね。頭のてっぺんに桜のマーク。<豊本>とか<平>とか書いてあるのは所属でしょうか。流石に苗字がこんなに豪華に入ることはないと思うので、消防署のあった地名の頭文字とか? 服の柄がちょっと昔の火消しを連想します。 正装。この上着にこの革ベルト……パリッと着用している姿が見たいものです。 襟章・階級章のようなもの。何時頃の物なんでしょう。 これは良い帽子! とくに左。帽子は現在の制服とあまり変わらなさそうですね。 消防のテッパチがあるとは。現場へはこれで赴いたのでしょうか。 指揮刀のようなものもありました。サーベル。 消防の正装でもサーベル装備なんですね。かっけぇ…… <つづく> PR コメントを投稿する
この記事のトラックバックURL: <<北部軍司令官官邸(つきさっぷ郷土資料館)② | ブログトップ | 相馬神社・北部軍司令部周辺(平和公園)>> |