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屯田兵村兵屋跡①

札幌市西区琴似にある屯田兵村兵屋跡を見てきました。

屯田兵とは北海道の開拓と警備をしていた兵士のことで、道外出身者が中心の陸軍部隊。東北出身者が多く、特に明治維新で職を失った武士などが中心だったそう。
明治7年頃に最初の入植が始まり、その第一陣が琴似に兵村をつくったそうです。これが屯田兵第1大隊第1中隊でした。

住宅街に普通にあった。
琴似屯田兵村兵屋跡屯田兵村兵屋跡
兵屋番号133号 宮城から来た清野専次郎という人に与えられた家。現在、この清野という方の子孫が大学教授らしい。
向かって右の小屋は多分あとから建てられた管理小屋で、兵屋の一部ではないようです。

屯田兵というのは志願制で、入隊すると家族連れで北海道各地に入植し、厳しい生活規則の下で軍事訓練と開墾にあたりました。当時から既に北海道は外国の脅威云々の大人の事情がありまして、防衛体制も整える必要があったのでしょう。かね?
土地の開墾も血がにじむどころの騒ぎではなく、当時の琴似はほとんど原生林に覆われていましたから、背丈を超える笹藪や大木を農具を使う手作業。さらに原生林となると鹿や羆が普通に出るので、外でも家でも怖い思いをすることがあったんじゃないかと思います。羆も怖いけど鹿も危険ですからね……

以下、ローカルな郷土の話。カテゴリにローカル作ろうかな……
記事がクッソ長いよ!


兵村というのは、兵士とその家族用に与えられた住宅がズラーっと並ぶ団地のような所だったようです。今もこの地区の道路区画は兵村当時のままなんだそうですよ。
同じ規格の家が生前と並ぶなかから、この清野さんのお宅を資料として保存してあるらしい。改修とかはしてあるけど基本的に当時のままの姿のようです。

琴似屯田兵兵屋跡雨戸がありますね。北海道では珍しい。
屋根は消防法の関係でトタン張りですが、当時は柾葺きの屋根だったそうです。柾葺きって解らないのでググったら、扁平な木の板らしきものを瓦のように並べた屋根のことでした。隙間があって風通しの良い屋根だったらしいですが、北国でその屋根は……

兵屋間取り家の間取り。
土間と囲炉裏のある台所兼居間、八畳間と四畳半。中央の図を見ると自宅に対して庭の広さが分かります。まずはこの庭を畑にして、自分たちが食う分を作る方針だったらしいです。

兵屋和室雨戸のところから和室を覗きこんでみる。
広々。意外と良い家だなと思いました。ナイス和風。

入場無料で9時から16時まで。
CA3I0568.jpg囲炉裏のある居間。
この居間で一家団欒してたんでしょうか。とても風通しが良い感じがします。

兵屋土間土間には農具類が無造作に展示してありました。
臼や杵、鋤などは分かりますが、あとは何に使うのかよくわからん道具の数々。脱穀機とか。
ノコでっかいノコギリ。
大きさは、太田ともえが持ってた抜き目大切くらいでした。まさにあんな感じです。切り倒した大木の解体などに使ったんでしょうか。当時のこのあたりは、先日の円山登山の記事に載せたような大木がゴロゴロしていたんじゃないかと思います。あんなの切り倒して解体するのか……
琴似での話ではないかもしれませんが、作業に馬を使おう! ということになり馬が用意されたそうです。が、放牧されっぱなしの人に慣れていない馬で使いこなせず、アイヌの人に来て調教してくれたこともあったそうです。
開墾や農作業は家族ぐるみで行ったそうです。軍隊らしく朝に起床のラッパが鳴りますが、兵士だけでなく家族もラッパで四時起床、六時からお仕事、土地を開くなんかも人が整列して号令がかかると一斉に作業開始と、家族みんなで軍隊生活のような状態だったらしいです。遠出の際には許可が必要だったそうですよ。
北海道で米作ろうとする馬鹿がいるなんてどっかの新聞に書かれた時期もあったそうですが、彼らの様々な挑戦が後の北海道農業に大きく影響したとか。
屯田兵制服屯田兵
制服とか写真とか、色々と資料が展示されていました。

屯田兵として入植すると、家屋と土地・銃・農具などの支給に加え、入植後二年だか三年だかは食費のような費用(それまでに畑を整えなければいけなかった)、家族が死んだ場合は埋葬非も支給されたそうです。
ほか色々「向こうでは良い生活が出来る!」的な話を聞かされてはるばる来たものの、連れてこられた鬱蒼とした原生林(+羆)に皆が途方に暮れたそう。与えられた家屋もあれでは夏の蚊や冬の激烈な寒さで苦痛を強いられたことと思います。それでも一般の入植者や他の民家よりグレード高かったらしいですが……

さらに同じ道内でも地域によっては農作物が育たずに食う物にも困り、山で栗などを拾っては売り歩いたという話も。町で自分より豊かな暮らしの人たちに食糧を売って歩き、家に帰っては自分たちの粗末な食事に涙を流したそうです。
室蘭の輪西という地域が、土地は痩せているし天気も悪いし寒いしで農作業に全然向かなかったそうです。さらにそのうち工場が立ち並ぶと大気汚染が一気に進み、農作物の葉が汚れで錆び色に……
私は子供の頃はその輪西の隣町に数年住んでいましたが、天気も空気も悪かった。大気汚染は昔よりずっとマシだったけど、喘息にかかる子供が多くいました。

本来は軍事教練や警備など普通の軍隊の仕事と開墾や農作業が彼らの義務でしたが、暮らしが厳しく炭鉱などに働きに出た人もいたらしい。偉い上官も事情を知ってて「怪我のないようにやれよ」と許可してくれたとか、一般の兵達が米不足により薯を食べていたときは一緒に薯を食べた隊長の話とか、人情系エピソードを資料で読みました。

私も米を粗末にしないようにしよう……

貧乏すぎて蔑まれることもあったとか。なんかそうゆう類のけなし言葉をどこかで聞いたことがあるような気がします。
おそらく暮らしぶりは地域によって違ったのではないかと思いますが、元士族の集まり(平民もいた)とはいえ、明治維新で失業していたとはいえ、そんな境遇で外国が攻めてきたときに戦うための訓練までさせられるとは割に合わないですね。それでもやるのが武士だったんでしょうか。ぶっちゃけ理解できません。先人として感謝はしてるんだけど……
実際、自殺者や逃亡者、精神に異常をきたす者も出ていたそうです。
札幌市内では米のことで十数名の屯田兵が反乱を起こし中隊長の家を狙撃する事件も起こったそうです。兵士は処刑、中隊長も重謹慎だったとか。

私……もう床に生米が落ちてても掃除機で吸い込むのやめます……拾って母さんの弁当箱に入れt(ry

西南戦争で駆り出された時も、周りからは普段農作業してる奴に戦争できんのかと言われたとかなんとか。
でもそこは元士族だから白兵とかいかにも得意そうだし、戦争経験もあったそうで……結構強かったらしい。さらに前線の兵士は東北出身者が多く、前から敵だった鹿児島方面の士族に対して戦意が高かったそうで。
「近衛兵か屯田兵か」と言われたほどです。と、資料室でよみましたが本当かな?

上に書いたアイヌが馬を調教してくれたとか生活がきついとか、そうゆう小話的なものは琴似屯田歴史館資料室の資料で読みました。
資料室は月水金に解放されています。農具や制服、エゾシカの剥製ほか色々あります。当時の様子がわかる本が沢山あって面白かったです。
本のタイトルは……屯田兵なんとか……よもやま話? とかそんな感じの。忘れたけど。

面白い所では、兵村の子供だった人の思い出話。
カラスの巣から雛をほじくり返して悪戯してたら、学校の先生に見つかって「兵村の子供たるものがそんなことスンナ」と叱られ、翌朝も皆の前で叱られ、先生に廊下に立たされる始末。
さらに災難は続き、廊下に立たされていたら尿意が限界になり堤防決壊寸前だったそうで。どうしようかと思っていたら、廊下の木の板にちょうどよく節穴があったそうです。
それもちょうど腰の高さに……

先生にも気づかれず、その穴で事なきを得たそうです。
なんかちょっと尊敬する! 理解はできないけど!
やるじゃない。

辛く厳しい生活の中でいろんな人が泣き笑いして過ごしていたんでしょうね。まぁそれはいつの時代もそうですが、今とは辛さのレベルが違いますね。
頭数を揃えるために、年齢制限を大きく超えた人も戸籍を訂正して採用(!?)した時期もあったため、「紅顔の美少年も白髪の老人も、全て若き屯田兵として教練を行ったから、このときばかりは練兵場も笑いが絶えなかった。」という記述もどっかのサイトに。

そんな兵村住民たちの娯楽は週一で開かれる賞品付き射的大会や、山頂の旗を奪い合う藻岩山登山競争(モーリスはまだ生まれていません)、相撲の巡業やお祭り、盆踊りがあったとどっかの資料で見ました。
盆踊りなどは盛り上がり過ぎて警察に禁止されるくらいだったらしい。
警察が禁止するレベルの盆踊りってどんだけの騒ぎだったのか想像つかない。

「キェエエエエエアアアアアアアアアアアwwwwwwオドッタアアアアアアアアアアアアwwwwwwwwwwwww」ぐらいの騒ぎでしょうか。

よく分かんないけど。
ちなみに私の娯楽はPS2とBLです (`・ω・´)キリッ

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