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【指定】新琴似屯田兵中隊本部【有形文化財】①

これまたローカルな話題です。
そろそろSSとか続きも更新したい。

先月中旬のことですが、3月に行って入れなかった屯田兵中隊本部にいってきました。なんで一ヵ月近く経ってからうpしてるんでしょうね自分。
中隊本部は新琴似神社の横にあります。神社の境内にも何かの碑があったんですが、近寄ると林のカラスが厳戒態勢になるので避けておきました。

新琴似屯田兵中隊本部新琴似屯田兵中隊本部
開拓や農作業や軍事訓練にいそしむ新琴似の屯田兵をここで統括したんですね多分。
建築様式はアメリカ中西部開拓期に流行した構法で、実用重視で装飾は少ないけど重厚で威容ある建物なのだそうですが、私は建築のことはわからん!
文化財前に兵屋を見学した琴似は第一大隊第一中隊、陸自駐屯地横でたまたま屯田兵の銅像を見つけたのが山鼻の第二中隊、でここ新琴似が第三中隊だったそうな。

屯田兵が出動した西南戦争、屯田兵は士族だけでなく平民出身者もいましたが、東北出身の士族屯田兵は前から敵として戦ってきた相手に士気が高く功績を上げたらしい。
しかしここにいた屯田兵たちは敵が同胞なだけに複雑な思いだったんじゃないでしょうか。明治9年頃、第一中隊として主に東北からの元士族が中心に入植したそうですが、この新琴似の第三中隊は九州の士族とその家族たちです。明治20年、ここまで来るのに8~9日かかったらしい。

この第三中隊の中隊本部というのは、つまり………中隊の本部ですね。
本部の建物周辺に、こないだ見学した兵屋(兵士と家族のおうち)が整然と並んでいたそうです。地図を見た所、この中隊本部の周りは長方形の区画が規則正しく並んでいるのですが、多分兵村だった頃の区画がここでも残っているようです。住宅街だし当時から代々住み続けてる人もいそう。札幌の大地を開拓した本人たちの子孫……なんか歴史を感じてすごいですね。

というわけで中隊本部に入場無料で突入。

ここは新琴似で、以前に兵屋を見た琴似とは別の場所です。

続きは↓をクリック

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屯田兵村兵屋跡④


神社の敷地の一角で守られているもう一つの兵屋。有形文化財です。
蜘蛛の巣をくぐって見学。
琴似神社 屯田兵屋跡兵屋番号140番
佐藤喜一郎さん宅。佐藤さんは地元出身で一般開拓者の息子でしたが、明治8年に屯田兵の募集に応募してこの家に入居したそうです。
なんてゆうか古い。これの前に見た兵屋はずいぶん綺麗でしたが、これは本物っぽい古さとボロさです。
この家も内部は土壁でしたが、資料読んだらどうやら一般兵の家も土壁だったようです。別の地域の兵村資料によると「兵屋は板壁で土壁の家は将校だけ」とあったので、地域によって待遇違ったのかも? 第一中隊やるじゃない。
130年前、この神社の周辺は兵村だったわけですが、後にすぐ近所からこの一軒を神社に移転して保存してきたそうです。

佐藤さんは明治天皇が北海道に来た時に宿屋の警護に選ばれたことと、熊狩りの名手だったことで名前が記録に残っているそうです。
ここは現在市街地ですが、まだ開拓が始まったばかりの当時は羆が普通に歩いてたと思います。暴れ熊を屯田兵が退治したこともあったらしいですが、佐藤さんは単独でも共同でも熊を仕留めるのが上手だったとか。アイヌのトリカブトの毒矢も使い仕留めていたそうです。
そして熊害犠牲者が多かったためか、開拓使から奨励金として羆一頭15円がもらえたと資料に書いてあります。当時は米一俵(60㎏)が3円50銭……熊狩り美味しいですね。
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琴似神社~屯田兵村兵屋跡③

兵屋跡を出て、もう一軒を目指し商店街をしばらく歩きます。
琴似の地下鉄とJR駅周辺は札幌の副都心の一つのような街で、学生時代に毎日通っていた場所です。およそ130年前にはここは原生林で開拓者達が血と汗と涙を……みたいなことは考えもせず、友人と遊んだり飲み歩いたり勉強したりしていました。
今ではもう行く用事は無くなりました懐かしの琴似、兵屋跡見学の為に数年ぶりに訪れたわけですが……なんか在学中から卒業後から周りで色々あったんで、懐かしいというより虚しかったです。
いつも他人のせいで事件に巻き込まれます。行く先々で事件が起こるコナンに似ている。この世にバーローが多いせいで善良な私が苦しめられます。

思いがけず鬱地雷を踏んだけど目的地がここ。
琴似神社です。
札幌 琴似神社懐かし。
この神社境内のどこかに、もう一つの兵屋跡が残されているというので探すぞ。

入植してきた屯田兵が作った神社がここ琴似神社の創始で、いろいろあってこの姿になったんだそう。鳥居をくぐるとすぐ右手には屯田兵の授産場跡の碑があります。生活の足しにする事業で養蚕やってたらしい。

以下、記事の続きは↓をクリック
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屯田兵村兵屋跡②

兵屋跡の続きです。
ご自宅拝見。

靴を脱ぎ居間に上り込んで一人腰を下ろす。
目の前に良い感じにレトロな物入れが。
兵屋居間こうゆう家具欲しい。
左の棒は電燈か提灯か何か吊るすものだったらしい。それにしても良い味の家具です。そういえば家具も支給されたと聞きますが、持ち主は何を入れたんでしょうね。
兵屋 レトロランプレトロランプ。
電線が繋がってるけど当時も電気は通ってたんですかね。札幌だし通ってたか。
入植が始まったのは明治8年ですが、当時の人は、百年以上後にこのランプやボロタンスを見ただけで悦る人が出てくるとは思うまい。
兵屋 時計と神棚時計と神棚。
神棚が黒いのは古いから? わからんけど渋い。

以下、兵屋内を見物します。
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屯田兵村兵屋跡①

札幌市西区琴似にある屯田兵村兵屋跡を見てきました。

屯田兵とは北海道の開拓と警備をしていた兵士のことで、道外出身者が中心の陸軍部隊。東北出身者が多く、特に明治維新で職を失った武士などが中心だったそう。
明治7年頃に最初の入植が始まり、その第一陣が琴似に兵村をつくったそうです。これが屯田兵第1大隊第1中隊でした。

住宅街に普通にあった。
琴似屯田兵村兵屋跡屯田兵村兵屋跡
兵屋番号133号 宮城から来た清野専次郎という人に与えられた家。現在、この清野という方の子孫が大学教授らしい。
向かって右の小屋は多分あとから建てられた管理小屋で、兵屋の一部ではないようです。

屯田兵というのは志願制で、入隊すると家族連れで北海道各地に入植し、厳しい生活規則の下で軍事訓練と開墾にあたりました。当時から既に北海道は外国の脅威云々の大人の事情がありまして、防衛体制も整える必要があったのでしょう。かね?
土地の開墾も血がにじむどころの騒ぎではなく、当時の琴似はほとんど原生林に覆われていましたから、背丈を超える笹藪や大木を農具を使う手作業。さらに原生林となると鹿や羆が普通に出るので、外でも家でも怖い思いをすることがあったんじゃないかと思います。羆も怖いけど鹿も危険ですからね……

以下、ローカルな郷土の話。カテゴリにローカル作ろうかな……
記事がクッソ長いよ!

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